子供の頃、大きな駅へ行くと高揚感のようなものを覚えた。それは遠くへ旅行に行くからでも、デパートの屋上へ連れていってもらえるからでもない。そこには確かに、自分が普段いる場所とは明らかに異なる空気が流れていて、弥(いや)が上にも胸が高鳴った。その空気の正体は何だったのだろう。非日常という一言で片付けてしまうのは簡単であるが、そうであるならば何度か足を運ぶうちに感情の昂(たかぶ)りは消えていくはずだ。だが、大人になった今でもそれは残っている。毎日仕事をしている駅でも感じる。その空気の正体、それは…。

 

 

 歩道に出来た沼のような水たまりを長靴で揺らしながら駅へ向かったある日のことである。泥で汚れた出入口を清掃している俺を見て、小さな子供が手を繋いでいる母親に言った。

「このお兄さん、お掃除をしていて偉いね。僕も帰ったら、お掃除頑張るね」

自分の部屋を掃除するのとは違う。仕事でしているのだから、偉くなんてない。それに、もう俺はお兄さんではない。心の幼さと比例して外見も若く見えるようだが、立派な、いや、粗末な中年である。

「息子くん、この人は仕事をしているだけなのよ。だから、偉くないの」

キラキラと目を輝かせている子供に対して、母親は冷めた口調でそう言葉を返した。言っていることは少しも間違えていない。だが、伝え方というものがあるだろう。俺ならば、相手を否定するようなことは言わない。

「そうなんだ。お掃除の仕事の人は偉くないんだね」

偉くない…、それは事実である。ならば、この母親が思う偉い仕事とは何か? その仕事とはどんな差があるというのか? どのような仕事であれ、大切なのはその向き合い方ではないのか? 俺は虚しさを感じ、作業をやめた。清掃道具を手にして階段を降りると、仕事を終えた婆さんたちがエレベーターを待つ列に並んでいた。声を掛けようとすると扉が開いたので、俺は軽く頭を下げた。婆さんたちは俺に気付いていない。満員になったエレベーターの中で身をよじらている。

 

 

 そんなエレベーターに車いすに乗った男性が向かっていった。

「すみません、乗せていただけますか?」

中は満員である。男性の声を聞いて青年が一人降りてきたが、どう詰めても車いすが入るスペースはない。黙って前を通り過ぎようとすると、車いすの男性と目が合った。

 

 

「お兄さん、駅の清掃の人ですよね?」

嫌な予感がした。だが、話しかけられて無視するわけにはいかない。

「はっ、はい…、そうですが…」

「中の人に降りるように言って下さいよ」

「えっ…」

俺は一瞬言葉を失った。乗っているのはお年寄りだけである。それはこの男性だって見えているはずだ。いくら車いすのお客とはいえ、順番を待っていたお年寄りたちに降りて下さいとは言えない。それは間違えた優先意識だろう。

「ほらっ、早く! 上で待っている人もいるんですから!」

待たせているのはあなたでしょう…、そう言いたかった。どうすべきか…、こんな時はいつも婆さんが助けてくれる。だが、この時は揃ってそっぽを向いていた。たまには自分で解決しなさい…、そんなふうに言われている気がした。

「お客様…、中に乗っているのはお年寄りだけです。杖をついている方もいらっしゃいます。すぐに来ると思いますので、次までお待ちいただけないでしょうか?」

「はぁ? 私は車いすに乗っているんですよ」

「…それは存じております。お急ぎなのでしょうか?」

「急いでいなかったらダメなの? あなた、清掃員ですよね?」

「はい、清掃員ですが、それがどうかしましたか?」

「どうかしましたかって…。あなた、清掃員のくせに偉そうなことを言ってもいいんですか?」

どうして俺はいつも面倒事に巻き込まれるのだろう。イチャモンをつけたくなるような顔をしているのか、絡んで下さいというオーラを纏っているのか…。いや、違う。違うと信じたい。きっとどこかに隙があるのだと思う。

 

↑ イチャモンをつけたくなりますか?

なる気がしなくもない…。

 

「…清掃員のくせにって何ですか!」

そんなことは言わないし、言えるはずもない。俺は心の中でそう叫びながら、口からは違う言葉を発した。

「お客様…、車いすでご移動されるのは本当に大変なことだと思います。ですが、それを武器にしてはいけないと思うのです。先程も申し上げましたが、エレベーターの中には杖をついているお年寄りもいらっしゃいます。その杖は身体を支えるもので、振り回して人を押しのけるものではありませんよね?」

俺は自分に言える精一杯の言葉を男性にぶつけた。人生の先達である婆さんが口にしたのなら、その重みも変わっていただろう。だが、俺には婆さんのような貫禄も威厳もない。何と言っても、"偉くない"清掃員である。

「押しのけるって…。あなた、一体何なんですか! もう結構です! 今から駅事務室へ行ってきます。どうなっても知りませんからね!」

男性は車いすをくるりと回転させ、改札口へ向かおうとした。苦情を並べ立てに行くつもりなのだろう。俺はエレベーターに乗っているお客に頭を下げ、その場を立ち去ろうとした。その時である。奥から杖をついたお年寄りが身体をくねらせながら出てきた。

 

 

「キミ、ちょっと待ちなさい!」

お年寄りは車いすの男性を呼び止めた。男性は車いすの車輪に手を置いたまま、顔だけをこちらに向けて言った。

「何ですか? 証人になって下さるんですか?」

「はい、証人になります。清掃員さんの…、このお兄さんの文句を言うなら、私たち全員が証人になります。皆さん、異議はありませんよね?」

お年寄りがそう呼びかけると、エレベーターの中のお客が全員降りてきた。男性はその光景を見て、勝ち誇った表情を浮かべた。

「さぁ、一緒に行きましょう! 弱者を傷つける清掃員はクビにしてもらいましょう!」

「…キミはどこまでおめでたいんだ? 私たちはね、この清掃員さんを守る為に降りてきたんだよ」

「えっ…」

「ほらっ、行かないのですか? 行かないのなら、早くこのエレベータに乗って帰りなさい! お望み通りに全員降りましたよ」

「………………」

車いすの男性は顔を真っ赤にしてエレベーターに乗り込み、叩くように行先ボタンを押して地上へ上がっていった。まさか自分が責められるとは夢にも思わなかったのだろう。俺はそんな彼を見て、自分の至らなさを痛感した。婆さんならば、もっと上手く解決できたかもしれない。どうにも心が晴れず下を向いていると、杖をついたお年寄りが俺の肩をポンと軽く叩いた。

「清掃員さんに落ち度はなかったと思いますよ。だから、上を向いて下さい」

「あっ、いや…、俺は…」

もごもごしていると、聞き覚えのある声が耳に届いた。

「あんたも成長したわねぇ。さっきの言葉、胸に響いたわよ」

 

 

「かっ、会長…、どうして助けてくれなかったんですか…。勘弁して下さいよ」

「あんたなら大丈夫だと思ったからよ」

「かきたくない汗で身体中びっしょりですよ…」

「…駅にはね、色んな人が来るの。自分の常識が当てはまらない人だってたくさんいるわ。ここは分断されていない場所なのよ」

分断されていない場所…、確かにそうだ。年齢や性別はもちろん、学歴や就いている職業、個人の嗜好、ここには一切の壁がない。実に多様な人が集まってくる。考えてみると、このような場所はそう多くない。学校は年齢や偏差値、会社は学歴や資質、遊園地は趣味や趣向、人は知らず知らずのうちに分断された世界の中で生きている。子供の頃に駅で感じた高揚感、それは刻一刻と匂いの変わる景色が齎す期待と不安で、その空気の正体はいつ近付いてくるか分からない"未知"の気配だったのだろう。

 

 

「お二人はお知り合いなのですか?」

杖をついたお年寄りが婆さんに尋ねた。

「そうよ、アタシもここの清掃員なの。この人はアタシの教え子よ」

「いっ、いや…、教え子って…」

「なるほど、道理でしっかりとしていらっしゃる」

「あんたに"5せん円札"をあげるわ」

「なっ、なんですか、唐突に…。お金なんていりませんよ」

婆さんは俺の言葉などまるで聞かず、財布から小さなお札を取り出した。

 

 

「おもちゃのお金じゃないですか…」

「おもちゃじゃないわ。"5銭円札"よ! 遠慮なく受け取っておきなさい、ガハハハハ」

 

 

「いっ、いや…、5銭貰っても…」

「これからね…、あんたの行動や言葉に胸を打たれたら、"5銭円札"を1枚ずつ渡すわね。10枚目を渡したら、アタシは引退させてもらうわ」

「いっ、いや…、そんな宣言をされても…」

「何枚渡せるかしらね。アタシの所に天からのお迎えが来る前に集めるのよ、ガハハハハ」

集めたくないし、お迎えなんて来てほしくない。ずっと"先生"でいてほしい。だが、2枚目を受け取るまでにそれほど時間はかからなかった。

 

 

文・絵 清掃氏